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本尊

 本尊は本門八品上行所伝の『南無妙法蓮華経』でございます。宗祖日蓮大聖人は私達の為『南無妙法蓮華経』の内顕の世界を大曼荼羅としてお示しになられました。全ての諸仏・諸菩薩・諸天善神が法華経の内にお住まいになられております。

法華宗の教え

 法華宗の教えとは何かということですが、宗祖日蓮大聖人のお唱えになったお題目は、「本門八品上行所伝の南無妙法蓮華経」です。宗祖は、家に讃教の努めあれば、七難即滅七福即生とおっしゃっておられます。この本門八品のお題目を身口意にとなえ実践することを大切と考えております。
 そしてこのお題目を忠実に伝えられ、お教えになられたのが開祖日隆聖人です。お題目は決して抽象的な心理とか法理とかいうものではなく、人間の心を育て向上させるための生命力あふれる慈悲そのものの教えであり、功徳のあつまりなのです。
 私たちはこのお題目を唱えることにより、明るい社会、平和な社会を築いていくのです。

本門流

 法華経は迹門と本門とに分けられます。
 門祖日隆聖人は法華経の本門の中でも、特に「従地湧出品第十五」から「嘱累品第二十二」迄を最も大切な教えとされ、『本地本門』と称されました。
 お釈迦様が上行菩薩に托され、上行菩薩が今生にて日蓮大聖人となられ弘められたのが、法華経の真髄『本地本門』に由来するところのお題目、それが『本門八品上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経』であるとお教えくださっております。日隆聖人御在世の乱れた時代に、私たち民衆の安穏を願われ、法華再興を誓願され、日蓮大聖人の教えを忠実に、そして正義をお伝えくださっているのが、法華宗本門流でございます。
 そして永隆寺は、日隆聖人創建大本山本能寺に連なる寺ですので本能寺派となります。

法華宗の歴史

 宗祖日蓮大聖人は、建長五年(1253年)四月二十八日御年三十二才の時、千葉県安房清澄の旭ヶ森にて海より登り来る太陽に向い、「南無妙法蓮華経」と唱えられこの日集まれし人々に対し、「法華経こそが仏になれる教え、我、南無妙法蓮華経宗を立宗せり」と申されました。
 妙法蓮華経は略して法華経ですので、宗祖日蓮大聖人も自ら略されて「法華宗」とよく云われていたそうです。 そのため明治以前は「法華宗」と永年言っておりましたが、明治政府の布令に「宗旨に門祖の名を冠して良い」とされる一文が発令されまして、山梨県身延町にあります総本山久遠寺が「日蓮宗」と改名致しました。
 私共永隆寺の大本山本能寺(京都寺町)は、日蓮大聖人の御意志・御教えの正義を忠実に伝えられた日隆聖人を門祖とされる「日隆門流」ですから、昭和二十六年(1951年)四大本山である処の、京都本能寺、千葉県にあります『鷲山寺』、静岡県の『光長寺』、兵庫県の『本興寺』が合同致しまして、昭和二十六年に『法華宗』と公称いたしました。
 宗祖日蓮大聖人も口にされていた“法華宗”の名称が伝えられているのです。

日隆聖人

 本門の「祖」とお呼びし、法華宗再興唱導師と称されております。
至徳二年(1385年)十月十四日富山県射水にて、桃井尚儀・益子の子として生誕され、幼少にして剃髪得度、十八歳の頃、京都妙顕寺におられた叔父の日存・日道両聖人を頼り、第六代管主日霽上人の門に入り、慶林坊日隆と名を改められ、日夜法華経の奥義を探求されました。
 この頃の都は、信仰・政治全て乱れ、人々は恐怖の中での生活です。当然法華信仰も例外ではなく堕落しておりました。その有様を見ておられた日隆聖人は、民衆の悩み・苦しみ畏怖する姿に接し一大決心をされ、叔父の両商人と共に妙顕寺を退出し、日蓮大聖人の正義の教えを復興されるために立ち上がったのでした。
 そして応永二十二年(1415年)本応寺(後の本能寺)を創建されましたが、真の法華信者に降りかかる迫害はやはりあり、応永二十五年(1418年)本応寺は破却され、さらに刺客をも送られ命も狙われるにいたり、故郷の射水に戻られましたが、その地において「法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)」を著され、日蓮大聖人の正義再興を宣言され、永享五年(1433年)に京都六角大宮に再び本応寺を再建され、「本能寺」と改称されました。破却から実に十八年の歳月です。
 日隆聖人八十年の御生涯にて、その間三百余巻の書を著され、現在法華宗の聖教として大切なものになっています。寛正五年(1464年)二月二十五日に御遷化されました。